江戸蕎麦 一香庵 by Suzuasa
店名の由来
 そば通で有名な、江戸時代の書家「市河米庵」は、 そばのうまさは鮮度にあると言っています。それは、古いそば粉は香りが消えてしまうからです。つまり、「そばは香りが命」ということです。
 また、浅草・称往寺の道光庵で食べさせた打ち立てのそばが大好評であったことにちなみ、そば屋の屋号には「庵」が多く使われるようになりました。
 そして、私共お店は 「香」と「庵」の字を取り、新鮮で打ち立ての江戸そばをお客様に味わっていただく店として「一香庵」と名付けました。
有田焼の大皿
一香庵のこだわりの原点
蕎麦粉のこだわり
◆器のこだわり
◆書という文化
 
 
 
 
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手書き文字・・・文明と文化の原点

虞世南(558〜638)の孔子廟堂碑
唐の太宗はことのほか虞世南の人柄を愛し、その博識を見こみ、世南の五絶として徳行、忠直、博学、文辞、書簡を褒め称えたということです。 書は王羲之の七代目の孫、真草千字文で有名な智永に直接学んだといわれ、羲之の流れを汲んでいます。

 一香庵には書家 須田妍峯先生の書が飾られています。
ひとつひとつ手で作り出される命の結晶、手作りにこだわる一香庵のポリシーとしての「書」に対する思いは一緒です。

高度化した機械やコンピュータによって便利な日常を謳歌している私たちですが、原点として人間の手により直接作り出されるものの醍醐味を大切にしていきたいと願っています。
 地上には太古の昔から多くの文明が生まれ、そして消滅していきました。数々の文明に共通する特徴として偉大な遺跡を残しながら消滅してしまった文明は文字文化を持たなかったという特徴があります。これを思うと文字が持つ意味合いの大きさを感じられずにはいられません。

中国に始まり、日本独自の進化を極めた芸術のひとつである「書」について、考察し、学んでいきたいと思います。

 
王羲之:肖像
 芸術としての書の原点というと王羲之の存在に異議を唱える人はいないと思います。

 307〜365(西晋,永嘉1?〜東晋,興寧3?)中国,東晋の書家・文人。字は逸少。琅邪臨沂(山東省臨沂市)の王氏の出身。王曠の子。宰相王導の従子。はじめ秘書郎となり,寧遠将軍・江州刺史をへて,351年に右軍将軍・会稽内史となったが,4年で官を辞した。この官名から王右軍とも呼ばれる。当時の知識人の風潮でもあるように,彼も早くから隠遁の志を抱いており,官を辞したのちも都の建康には帰らず,会稽郡に永住して59歳で卒したという。その間,353年には当時の名士である謝安や孫綽らと山陰の名勝蘭亭(浙江省紹興県)に会して詩を賦し,みずからその序文「蘭亭序」をつくった。幼少より書をよくし,漢魏以来の諸家の書を集大成して芸術にまで高めた。隷書をはじめ,楷・行・草にもわたって古今書家の模範とされる。日本でも奈良・平安時代の書は王羲之を源流としている。楷書の「楽毅論」「黄庭経」,行書の「蘭亭序」,草書の尺牘を集めた「十七帖」などが著名であるが,真蹟と称すべきものは現存しない。その子の王献之とともに二王と称される。
出典:
 
出典:季刊書道ジャーナル 定武蘭亭序呉炳本(部分)
 
蘭亭序 らんていじょ
  中国,晋,王羲之の行書。353年(永和3)3月3日,祓禊の日,右軍将軍・会稽内史王羲之は,会稽山陰の蘭亭(浙江省紹興県)に,謝安・孫綽ら一流名士を招き,流觴曲水の宴を設けた。一觴一詠し,四言詩五言詩の2首をつくったもの11人,一題一首をつくったもの16人。そのときの詩賦をまとめて,のちに『蘭亭集』とし,王羲之の前序・孫綽の後序がつけられた。その前序が『蘭亭序』である。当日興のおもむくままに,蠶繭紙(さんけいし)に鼠鬚筆(そしゅひつ)という硬い紙筆を用いて,一気に書き上げられた。28行324字,同じ文字はみな運筆が異なり,他日王羲之は100たび清書したが,できばえは初稿に及ばなかったといわれる。文章は,うつろいやすいものへの悲しみ,人間として逃れられない死に対する憂いを表現している。『蘭亭序』は書聖王羲之の作品のなかでも,逸品中の逸品として尊重された。
その後約三百年間、中国では、異民族の支配の中、流觴曲水の宴も空白の時を過ごします。
 
王羲之が生まれたのは、西暦三〇三年です。 そして、蘭亭の宴は、西暦三五三年の旧暦三月三日に催されました。 あたかも三月三日を強調するために意図的に合わしたように三の数字が並んでいます。 
 
アートの歴史と時代性・・・
 王羲之を源流とする書の流れはやがて日本に渡来し、その後日本独自の芸術的進化を遂げます。
特に蘭亭序は曲水の宴として宮廷文化に根を下ろし、数々の日本独自の文化を生み出す場として定着しました。
そして現代日本においての書はアートワークとしてのさらに新しい時代性を持って、国際的な高い評価を得るにいたっています。
漢字は象意文字としての成り立ちから長い歴史を経て今日の時代を迎え、書家と呼ばれる作家に新たな時代の息吹を吹き込まれ、現代の文字として生き生きとして蘇ります。
 
伝統を大切に現代へ・・・
   
 単に古を尊びそれを模倣するのではなく、今の時代に根ざしたエネルギッシュな創作活動による書のダイナミックな魅力が須田妍峯先生の作品の特徴のひとつでもあります。
 
ひな祭りの壮大な歴史絵巻へ
西暦六四九年太宗は臨終の床で秘宝中の秘宝であった蘭亭序を、自分の亡骸とともに埋葬するように遺言し、王羲之の約二千点の書とともに永遠に地上から姿を消すことになりました。 すなわち現在伝えられている蘭亭序は、王羲之の真筆ではありません。 太宗が模写係りに命じて精巧にうつさせた写本です。 ここで想像されることは、唐の都長安では、書聖王羲之の蘭亭序の真筆も含め約二千点の書の話題で盛り上がっていただろうということです。 そして、この時期に、日本から第一回遣唐使として犬上御田鍬(いぬがみのおたすき)が、派遣されることになるのです。 犬上御田鍬が、唐の長安に留まったのは、たった二年のことです。 しかしながら、その間に書聖王羲之の会稽山陰の蘭亭で行った流觴曲水の宴と蘭亭序の話題に接し感動したとしても不思議なことではありません。 その後、遣唐使の一員として入唐した山上憶良(やまのうえのおくら)、阿倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)、玄ム(げんぼう)らは有名です。 特に、吉備真備、玄ムは、多くの新しい知識やすぐれた文物を持って帰国したといわれています。 その中には、蘭亭序の写本もあったことでしょう。 そして、遣唐使の派遣約百年後、西暦七二六年、聖武天皇が、流觴曲水の宴を行うことになります。
 
雛人形2300年の時空の旅は、海を渡り日本国へと舞台を移すことになります。
 
参考資料:人形のモリシゲホームページ資料より抜粋・引用
リンク:人形のモリシゲ